ぺんぎんの音楽日記

クラシック音楽について、絵画や鳥たち、日々の生活について自由に書いていこうと思います。

ベトベンのミサソレ~♪

ベトベンの「ミサソレムニス」、3度目の登場です。
去年の秋から、今年6月の演奏会を目指して練習してきました。

練習、けっこうさぼりました、、譜読みだけの練習はつまらないです、、とか横着に言ってるから、いまだにちゃんと音が取れてないのですが、、まあ、あとでピアノ弾いて自分で練習しよう。。。
第九なんか易しいので、本番前に、ちょちょっと自分で浚っていけばなんとかなります。
この曲もそのつもりでした。

が、、、難しい。
音程がオクターブ以上に下がったりするのが難しいというようなことは前にも書きましたが、そういうのは練習すればなれるし、オケ伴聞けば何とかなるんです。
もっと大変なことが、、この間の練習で起きました。
オケあわせだったのです。地元のアマオケとの練習。
キリエ、グローリア、とすすんできて、キリエはともかく、グローリアは集中して楽譜をよく見てないとついていけない気がして、ちょっと頑張りました。さぼったからしょうがないなと思いました。
クレド(これがこの曲でいちばん長いのですが)に入って特に中盤以降、必死でカウントして頑張りましたが、とうとう迷子になりました、、
必死で楽譜見て、「ここだ」と思って入ろうとしても、誰も入る気配がない、え?ひょっとして、私だけじゃない?迷子になってる人が周りにもいる、、

譜読みには自信がありました、ベトベンだし、伴奏譜(ピアノ譜ではありますが)を見ればどこを演奏してるかわかる、とたかをくくっていました。
もちろん、ピアノ伴奏の一番高い音(バイオリンパートとかだったりします)が、オケでのメロディであるとは限らず、もっと低い音域での木管とかがメロディだったりする、と言うことも分かってるつもりでした。
が、今までのピアノ伴奏による練習と、本当の「ミサソレ」つまりオーケストラとあわせた「ミサソレ」のギャップが大きすぎたのです。
3月に、二度目に「ミサソレ」の記事を書いたときに、CDを聞いてみたら、練習したはずのところがどこかわからない、不安だ、と書いたと思います。
その不安、嫌な予感は見事に適中して、私だけじゃない、多くのメンバーがオケ合わせの最中に、楽譜をしっかり持ち、指揮者の先生をみながらも、クレドで迷子になったのでした。。
指揮者の先生「そこ、合唱入ってきてる?聞こえないけど、、」
入っていません、迷子になってます。。。とはだれも言いませんでしたが。。

合唱指導の先生は、本番オケの指揮者ではありません。
でも、打ち合わせは十分にしてるはずでした。なのに、どうして、オーケストラが入ることで、これまで練習してきたのに歌えなくなったのでしょう。。



いろいろ考えてみました。
これまでも、ここの合唱団でドヴォルザークの「レクィエム」、ヴェルディの「レクィエム」等歌ってきました。
オペラの合唱曲もたくさん歌ってきました。
でも、ベトベンの「クレド」ほど難しいものははじめてだったかもしれません。
第九と同じ時期に書かれたものの(第九は作品125、ミサソレ作品123)、第九とは違うのですね。。。

ミサソレと第九の違い(以下Wikipediaによる)
第9交響曲が主にホモフォニーで書かれているのに対し、ミサ・ソレムニスはベートーヴェン晩年独特のポリフォニックな表現が主体となっているのも特徴である。
『グローリア』、『クレド』などは、かなりアクロバティックな対位法的処理を含む・・・
巨大な構築を持ち、ベートーヴェンポリフォニー音楽としては最高のものの一つとされている・・・

第九を練習するつもりでこの曲を練習したのでは、到底無理なのです。
また、譜が読めたら、音が取れたら歌えちゃう曲ではないのです。
完成までに5年間を要した大曲であると同時に、ミサの言葉の内面を豊かに表現した「純粋な交響曲的作品」(ワグナー)であるので、それを表現できるよう練習するべきなのでしょうね。
一方、第九はその歌詞の内容からして、「すべての人々は兄弟!」「抱き合おう!」、なので、すべての人々を受け入れ、すべての人々が歌えるように作ってあるのかという気もします。
第九は、年末にあちこちで演奏される、つまり、誰でも演奏できる、ということでしょうか。
「ミサソレ」は、技巧と表現の両方が演奏者に要求されるということでしょうか?

それにしても、なぜ、あれほどオケとあわせられなかったのか。。
第九はメロディがコーラスによって歌われます、何回か形を変えて出てきます。オーケストラでももちろん演奏されます。合唱が加わることで、曲はいっそう盛り上げられるのですね。
交響曲ですから、1楽章から始まって、2楽章、美しく感動的な3楽章、そして4楽章で歓喜の合唱が加わっていっそう曲を盛り上げて終わる。そういう流れで演奏されます。
ずうっと、はじめから曲を演奏し流れを作ってきてるのはオーケストラであって、合唱は後からその流れにのって第九交響曲に参加する、そんな感じでしょうか。。。
でも、ミサソレは、そもそも合唱曲です。オーケストラが終始演奏して流れを作っていきますが、合唱はお客ではなく、一緒に主役を張っていかねばなりません。出番がないからって、次の出番までボーっとしてないで、曲の流れを追って、次に入るところで上手くオーケストラに乗っかってはいらなければなりません。緊張感を持って、オケと一緒に演奏しているのだと言うことを忘れてはならないのです。
そうでないと、置いてけぼりを食らって、どこにいるかわからなくなってしまいます、わかってもうまく入れなかったり、、
テンポもやや緩めに練習していたと思います。テンポそのものより、何より、気持が緩んだ歌い方をしてこなかったか。。オーケストラは一生懸命です、合唱はオケと気持をひとつにして演奏していかねばなりません。
この間は、そこのところができてなくて、練習してきた時と同じように自分だけ(歌のしかも自分のパートのところだけ)の世界で歌ってしまったのでしょうね。。反省することしきりです。。。
また、前回「ミサソレ」について書いたときに、CDとは曲が違うと感じた時点で、もっと考えるべきでした。。これではいけないと、、
それだけ、合唱への熱意も冷めてきているのかもしれません。。
ロッシーニの「ミサソレ」を歌ってた頃は、もっと頑張ってたかと。。。



誤解のないよう付け足しておきますが、これは私が自分の練習について反省し思ったことで、合唱団の皆さんが、ということではありません。



補足です、ミサの言葉の内面を表現、と書きましたが、ミサの通常文(ラテン語)の言葉の大意は以下の通りです、グロリア、クレドの部分が長いです。

キリエ。。。kyrie eleison, Christe eleison(ここだけギリシア語です)
主よ、あわれみたまえ、キリストよ、あわれみたまえ

グロリア。。。いと高きところに神の栄光あれ、地には平和、善意の人(御心に叶う人)にあれ
      (われらは)主を褒め、主をたたえ、主をおがみ、主をあがめる
      (われらは)大いなる主の栄光に、感謝します
      神なる主、天の王、全能の父なる神よ、
      神のひとり子の主、イエスキリスト、神なる主、神の子羊、父のひとり子
      世の罪を取り除く方(主)よ、われらを哀れみたまえ、 
      世の罪を取り除く方(主)よ、われらの願いを聞きたまえ
      父の右に座す方(主)よ、われらを哀れみたまえ。
      主のみ聖なり、主のみ主なり、主のみいと高し、イエスキリストよ
      精霊とともに、父なる髪の栄光の中で、アーメン 

クレド(ニケーア、コンスタンチノープル信条)
   。。。われは信ず、ただ1人の神、全能の父、
      天と地、目ゆるもの、 見えざるものすべての造り主を。
      われは信ず、ただ1人の主、神のひとり子イエス・キリストを。

      神はよろず世のさきに、父より生まれ、
      神よりの神、、光よりの光、 まことの神よりのまことの神、
      造られずして生まれ、父と一体になり、 すべては主により造られたり。
      主はわれら人のため、またわれらの救いのために、
      天よりくだり、 聖霊により処女マリアより生まれ、人となり
      ポンテオ・ピラトのもとで、われらのために十字架に つけられ、
      苦しみをうけ、葬られ、聖書にあるごとく三日後によみがえり
      天にのぼりて、父の右に座したもう
      主は栄光のうちに再び来たり、生ける人と死せる人とを裁きたもう、
      主の国は終わることなし

      われは信ず、主なる生命の与えぬしの聖霊を、
      聖霊と父と子よりいでて、父と子とともに 拝みあがめられ、
      また予言者によりて語りたまえり。
      われは唯一で聖なる普遍の教会(公教会、つまりカトリック)、使徒の教会を信じ、
      罪の許しをもたらす 唯一の洗礼をみとめ、
      死者のよみがえりと、 来世の生命とを待ち望む。アーメン

サンクトゥス。。。聖なるかな聖なるかな聖なるかな
      万軍の神なる主、汝の栄光は天と地にあまねく満ち溢れる
      いと高き所にホザンナ 
(ベネディクトゥス)。。主の御名によって来たるものに祝福あれ
      いと高き所にホザンナ

アニュスデイ。。。世の罪を取り除きたもう神の子羊、われらを哀れみたまえ、
        世の罪を取り除きたもう神の子羊、われらに平安を与えたまえ